昭和五十七年八月二十八日 朝の御理解


 御理解 第四十八節
わが子の病気でも、かわいいかわいいと思うてうろたえるといけぬぞ。言う      事を聞かぬ時に、ままよと思うてほっておうような気になって、信心してやれ。おかげが受けられる。


一切神愛論という事が言われるが、論理の上に立つ神愛がわかっただけでなく、それが 実験実証によっておかげを受けるではなくて、その難儀とか困ったという事を通して力になりお徳を受けた時初めて一切神愛という事がわかると思うですね。
いわゆるおかげを受けたというだけであったら、神様にお願いしておかげを受けたとい うのも、頼んでおかげを受けたというのも、医者にかかって良くなったというのも、やっぱり五十歩百歩です。
おかげを受けるというのは、けれどもその事によって力を受ける、お徳を受けるという 事になって初めて、はあ成程神様が力を受けてくれよ、お徳を受けてくれよという御神意以外にないなあという事になってくるわけですから、その事を通していよいよ力を頂く、お徳を受けて初めて、いわば論理の上に立った神愛じゃなくて、体験の上に立った神愛という事になるのですね。
昨日、倉本さん達が親子で参ってみえて、今度あちら改式をする事になっています。で 、その、いつその改式のいわゆる式でお祭をして頂くかという事を相談に見え、で、ここの都合のよい何月何日というふうに、ところがその晩お夢を頂かれた。というのは、『その改式は八の字がつく日がいい』という事。あ、そんならそりゃやっぱ八の日がつく日になさったがいいですなあと言ってまあ申しました事でしたが。
如何に御霊様も広がりに広がる、御霊様もやはり助かりに助かりたいおかげを願ってお られるかが分かるねえといって、昨日お話した事でした。
そしたら、その翌日またお夢を頂く。というのは、も、『改式のお祭をこちらから先生 来て頂いてさして頂いとって、御直会に沢山ぜんざいを作っておる』あのお知らせでありお夢であったというのです。
ほう、それはよいおかげを頂いた。ぜんざいというのは、善導寺の善に哉。何々哉とこ う歌やらの時に使います哉ですね。これは仏様やら神様がお知らせを下さるときにね、善哉善哉夢疑う事なかれといったようなあれがありますよね。けど、私詳しく分かりませんでしたから、すぐ紀久男先生に字引を引いてもらいましたね。それは、やっぱり私が思うておりますような意味の事が書いてあり、最後に「よきかな」という事が善哉とは「よきかな」という、ね。
そういう改式という最高の善哉であり、よきかなの事を思いたっておるという事、ね。 しかも、それが霊が助かれば家も助かる事になります。しかも、霊の願いは広がりに広がってゆくおかげ願っておられる。また、倉本さん一家もそれを願っておられる。できれば、だから遠方にいっている子供達も全部集まって改式祭をしたいという、よきかである。善哉善哉である。という事でございましたが、神様にお知らせを頂くという事が、も、最高の生き方であり、よき事であるのです。
御神意のままに動くということは、そこで神様は、いつも例えば夢の中にでもより本当 なことを教えて下さろうとするし、起きてくる諸問題のうえにもね、わかってくれよわかってくれよという働きがいつもあっている。四十八節である、いつもおかげを受けられる、お徳の受けられる働き掛けを私どもの上に、いつも神様は祈りに祈り願いに願っておって下さる。それを私共が、ウカツにしておりますと気が付きません。
昨日の研修のときでしたが、終ってから栄四郎が出て来ておりませんので、「栄四郎は どうしたか、今日は栄四郎はどうして出て来ておらんか」と申しましたら、栄四郎が昨日から耳が痛んで熱発して寝んどるとこう言う。
私はその時にハッと思ったのは、豊美がここ四、五日もう大変な耳が痛んで熱発して、 ま、段々おかげ頂いてる模様ですけれども、若先生がちょいちょい耳をやられるんですね。随分苦しむんだそうですね。だから、そりゃまあ耳の病気には、あのう毒だみみたいななんかこう草のあれを絞ってからしたが一番よいち、昔から言われとるんですから、なら、それで治る。それで良くなるという事も有難いですけれどもね、けれども心を開かせて頂いておかげを頂いたらもっと素晴らしい事であり、なら今日皆さんに分かってもらおうと思う。はあ成程、耳が痛かった苦しかったけれども、あれは神愛の現われであった。こういう徳も力も下さろうとする神様の働きであった、とわかるおかげの方がいいでしょう。
私は、その「栄四郎がどうして出てないか」というたら、いやこうして耳がいたいとい う時に頂きました事が、あの『白扇をね、白扇を角のある方を正面に、こうじゃなくて横にこう頂いたんです。そして、その真ん中に黒い線がスウーッと入っておるところ』を頂いた。黒いという事は、苦労、いわゆる苦しい事という事でしょう。だから、その一線を横にパッと開いたらね、末広の八の字のおかげになってくるわけ、そうでしょう、ね。
私はそう感じたんですね。白扇の一筋の黒い線を『パッ』と頂いたから、あっ、この苦 労、この苦しい事を境に、一つその白扇を開くようなおかげを頂いたらね、おかげを。だから、私はこりゃもう天理教的、天理教ちいうと何ですけど、こうこじつけたようだけれどもね、それが家の子供達にみんなそれがあるという事は、御理解は頂いてはおるけれども、耳で聞いておるけれどもそれを実行しないからじゃなかろうかね、と私は申しました。ね
だから、んなら栄四郎なら栄四郎、豊美なら豊美がです、はあほんにその通りだ。と、 もうそれこそ耳は肥えておる。朝晩の御理解を頂いておるから肥えるだけで、それを実行しないからそこに痛みが留まっておるのじゃなかろうか。
私はお知らせを頂いたから、そう、ま、昨日は言った事でございましたけれどもね。黒 の線がスウッと入っておるところからそこを境に開いたら、末広がりのいうなら八の字のおかげになる。善哉善哉である。神様が言って下さる事を、本当に善哉として頂く時にですね、そこからいうならその事を通して神愛がわかる。
私は今日も、皆さんおかげを受けたからと言うて神愛がわかるという事じゃないです。 その事を通して力を受けた、徳を受けたというところにですね、いうなら成程、神愛だ。一切神愛論、御神徳を受けさせて下さろうという働きが、いうなら様々な痛い事でもあれば苦しい事であり難儀な事であるという事、その事を、だから、ね、ただお願いしておかげを受けただけでは、んなら、おかげだけならば人に頼んでも薬に頼ってでも医者に頼ってでも治ったというだけならば、おかげだけでしょうもん。
その事を通して力を受ける、その事を通して自分の心を開かせてもらうという事が、い うなら一切神愛論という事が論理の上に説かれ、その論理を土台として、なら、それが実感として、ね、一切神愛であるという事を体得する事が出来る、ね。
昨日、若先生が私の所に参りまして、それこそ言いにくそうにしてから言うんです。先 日、お医者さんが見えて頂いて親先生の身体の事を思うたら、「どうでも一つあの三時に起きられたり四時の御祈念をなさるという事をしばらく止めて頂いたらいいですけれども」と浅野先生が言われますよとこう言うのです。
私は、その時にね、何かはっとしたんです。もし、私に朝の御祈念を私から取り上げた らどういう事になるだろうか。私は医者にかかったら、医者の言われる事を神様の言われる事と思ってそれを実行する、という事。もう、入院でもしたら医者のいうなら言葉通りするという事がおかげなんですけれども、これは勿論、浅野先生も私の命の事を思うて下さり、勝彦もまた、親先生の健康の事を思うてそうして言っておるのだけれども、私にとって信心とは何かともし問われたら、信心は私の命ですだけではないです。これは本当に私の場合は、私の場合は信心は私の命以上のものなんです、ね。
ですから、子供やらお医者さんが言うて下さる私の命の事を思うてからの事、一時でも 長生きしてもらいたい、健康になってもらいたい、という所からでございましょうけれども、私にとって、なら朝のお勤めというものは、も、私の命以上のものだ。これは、お医者さんの言う通りばっかりじゃいかんなあと、昨日思いました。
今、朝の御祈念が、私が二食である事をどうしても親先生には三食頂いて頂きたいとい う事で、最近それを実行してます。為には朝の七時に退がって頂いて、七時にはお食事をして頂くようにという事であったからまその通りに、お医者さんの言う通りに、ま、朝の御祈念が終って一通りお取次が終ると、退さがりますと丁度退がった時が七時なんです。けれども、これは今日からお医者さんの言う事ばっかり聞いちゃならない。今日から元 通りの御用をさして頂こう、と、私は思うた。ね。私も命、私も、んなら一日でも長生きしたい願いをもたんわけじゃないけれども、その命以上の信心を、いうならばお医者さんの言われる通りするという事は、いわゆる今日の御理解で言うとママよという心になってね。子供の病気でもね、おろたえたらおかげにならん、もママよと思う心で放っておくような心になってすがってやれと、おかげになると仰せられる。
これは、だから子供だけの事だけの事ではない。自分自身の事であってもですね、ま、 段々おかげを頂いて一切神愛というような事が私の場合は体験を通してわかっていっておる事でもありますから、同時に信心とは、もし私に人が問うたならば、信心とは私にとって何なのか。それは、私の命以上のものですと答えるであろう。そんならば、私の命を心配して下さるお医者さんの事よりも、いうなら信心の方を取らなきゃならない。そこに至った時に、ママよという心で、そこから私本当の徳というかね、力というものは頂けるんだ、というふうに思うんです。
神様の言って下さる事はもう絶対善き哉です。善哉です。だから、それをね頂いて成程 と合点がいったら、それを実際実験実証してね、そこにその事によって力を受けて初めて一切神愛という事が論理の上だけではなくてね、体験の上にも頂ける事が出来るのです。ね
一切神愛論という事がわかっただけでなくて、本当にその事を色んなね、その黒い一線 が、を、境に扇子を、こ、開かせてもらう。末広がりにおかげが頂かれるお徳を頂くという事が神様の願いでもあり、私共のまた願いでもなからなきゃならん。でなからなければ、理屈の上だけでわかった神愛ではなくて、体験の上に立つ力を受ける為の神愛という事がわからんというふうに思います。
もういつも七時から先は遠方の方達がもうひっきりなしに電話をかけて来られます。や っぱり私の声を聞いて、向こうでも安心して下さる。喜んで下さる。それが、例えば私が七時に退がると出来ないね。今日からはね、例えば食事を元の二食にしてもね、少しは例えば、ならきつかってもね、命以上である信心の方を取らせて頂かなきゃならんなと思っております。ね
これは可愛い子供、色んな問題、さあどうなるだろうかという時にです、ママよという 心を出す事は、なら、自分の病気の時で、自分の難儀な時であってもやっぱりね、このママよという心になれれる為に、信心はいうなら私の命という所まで位はひとつ信心をすすめて頂きたい。
本当いうたら、私は、私の場合は実感ですけれども信心は私の命以上のものだ、ね、わ かる所からね、なら、手放しの信心とでもいおうかね、腹を据えた信心が出来るというふうに思います。                                                                    どうぞ